この病院は1965年に設計に着手して、1968年秋に完成した都の職員組合員数16万人余とその家族の為の病院である。規模は入院300人、外来が一日1,000人を扱う急性患者用の病院として、計画、設計された。この病院が出来た時代は、「東京オリンピック」が済んで、所謂、「いざなぎ景気」に沸き、東海道新幹線が開業し、名神高速道路に次いで東名高速道路が開通、GNP自由世界第二位を誇っていた時代である。大きなビルが次々と着工する程には、医療・福祉・住宅への投資は質量共に少なかった。
当時の設計で強く意識されたことは、第一に、日進月歩の医学・技術への対応として、成長に適応出来る病院建築システムの構築であり、具体的には、上下交通路に一端を直結させ他端を敷地の余地のある外側に開放させた構成にしたことである。第二には、患者の生活環境を重視し、既存敷地の池や樹木に馴染む建物配置、そして、基本的な柱間を6.0×6.4として、空間構成のゆとりを確保した。特に病室については、設計指導を受けた吉武先生が「死んでも良い療養空間を」と度々云われたことが忘れられない。ベッド周りのスペースのゆとりに加えて、中間期換気用小窓に木製調光ルーバーを取り付け、個別ロッカーの設置、木の質感を大事にした天井仕上げ等が「この時の答え」であった。病棟では、当時の効率的な看護体制が図れるように大(48床)小(32床)二つの看護単位を組み合わせ、夜勤時には一単位で集約管理が出来る提案をしている。患者も重症者・中等症・回復期と混在していた時代であり、個室・4床・5床・総室とバラエティに富んでいる。
建物が建って33年が経過した。健診~早期治療~専門治療~社会復帰支援~アフターケアーといった一貫性を持った健康管理治療機能を目指した改修計画が現在進行中である。
田邊峰雄
(2001発行 社外報Vol.5より抜粋)
東京都渋谷区/1968.10
写真撮影:川澄建築写真事務所