共同建築設計事務所
kyodo architects&associates

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鳥瞰全景

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合併症診療棟

都立松沢病院

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 戦後の松沢病院のプロジェクトは‘60年の患者調査から始まり、80年代末から90年代初頭にまたがるリハビリテーション施設の建設完了まで約30年の歳月を要した超長期プロジェクトである。我が事務所は’61年の全体計画作成業務以降、全施設の計画・設計・監理に関わり、1200床の木造精神病院を1500床を有する総合的な精神保健施設に造り替えるという希有なフィールドで、戦後の精神保健施設の新しい展開に参画するという恵まれた経験をすることが出来た。
 其の経過を資料から概括すると約10年ごとに施設計画上の重点が変遷したことが読み取れる。何れにしても、この内容は当病院が歴史的にも規模的にも我が国の代表的病院であるという特異性と、各年代の精神保健施設に関わる普遍的課題とが相俟って精神保健施設の戦後史が明らかに展開されているとおもうので、以下に簡略に記してみる。

1)第1期 (60年代)
 この時期の課題は20haにおよぶ大敷地のキャンパス計画をどのように考えるか?が最初の命題であった。この時期存在していた1000床を超える木造病棟群が性別による東西2群にわかれてはいるものの、正面玄関に管理棟を据えた典型的なパビリヨン型の一様な平面展開の配置であった。此れに対し新計画はサービス棟や作業リクリエーションなどの共用施設を中心にして、病棟は300床程度のサブグループに分割し、各グループには小規模ながら病棟外共用施設(集団治療室)を持つというものであった。
各群は患者にとって認知可能な空間に帰属することや、大規模管理にありがちな画一性硬直性からの脱却が期待された。この様な個別化の課題と対照的に機能的には千人を超す居住者をいかに効率よくヒードするか?すなはち、給食・洗濯をはじめとする物流や光熱水の設備計画を整合的に解決することがもめられた。
 この時期の建設工事は上記の計画に沿いつつも、建設可能な空き地をみつけては、改築切迫度の高い病棟から建て始め、結果としは八年間に計1090床の病床を建て替えることになった。

2)第2期(70年代)
この時期の建設を特徴づけるものとして 合併症病棟の問題がある。合併症とは精神の 病気と併せて 内科やその他の一般的な病気、また隔離を必要とする結核や他の感染症を併発した症状であるが、この種の患者の治療は 一般病院は勿論一般の精神病院でも困難とされ、公的な精神病院の役割とされた。松沢病院は人口の多い大都会東京の病院であるだけに、この種の需要は多く、新たに合併症病棟群として、Eグループ(300床)を創設し、従来からのA,B,C,D四群に加えて全体を五つの病棟群で構成するよう全体計画の変更が行われた。
 精神衛生法が精神保健法といいかえられたのは88年になってからだが、病院から退院する患者の為には病院と一般社会の中間に何がしかの施設が必要との認識(中間施設論)は第一期 の時から存在し、松沢病院においても66年に社会復帰病棟の建設をみている。この延長上に70年代にはいって、世田谷リハビリテーションセンターが院外の独立した中間施設として完成した。精神保健の地域への進出として、特筆されるべきだろう。
また第一期では敷地内に既存棟が相当に残っていて、実施できなかったキャンパス全域の新たの設備システムが計画され実行に移されたことも 指摘する必要があろう。

3)第3期(80年代)
 この時期の大きな事項は一般科の併設であろう。即ち85年の合併症診療棟の建設を機に内科・外科・整形外科などの診療機能が整備された。つまり松沢病院は精神の単科病院では無くなったのである。施設整備の内容としては、この診療棟以外に従来作業・リクレーション施設と称していた共用治療施設がリハビリテーションセンターとして敷地中央に本格的に整備された。またこの時期通院治療の専門施設が中部精神衛生センターとして院外に設置された。この様に病棟優先で先送りされていた、病棟以外の諸施設も第二期に完成していた管理棟をふくめ、漸く完了した。締めくくりの外構工事はさすがに感慨深いものがあった。
大場則夫

(2002発行 社外報Vol.6より抜粋)

東京都世田谷区
 

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